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2021年4月30日 徹子の部屋に浅田真央さんが登場します。
番組で浅田真央さんは10年前に肝硬変が原因で亡くなった普段は話さない母親のエピソードを語るといいます。
おそらくバンクーバーオリンピックでロシアの「タチアナ・タラソワ」コーチと浅田真央さんの母・匡子(きょうこ)さんのエピソードだと思います。
また、ネットでは浅田真央さんの母の職業がホステスで入船というクラブで働いていたという情報なども検索されていましたのでその真偽についても調べてみました。
浅田真央 プロフィール
浅田真央 年齢は?身長は?本名は?
フィギュアスケートの浅田真央さんはシングルの選手で男女を通じ
史上初グランプリシリーズ全7大会を制覇した選手として知られる。
アマチュア引退後は、プロスケーターとして活躍
浅田真央(あさだまお)
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生まれ 出身地 愛知県 名古屋市 名東区
誕生日 1990年9月25日 (年齢 30歳 2021/4月現在)
身長 163cm
体重 47Kg
名古屋市立高針台中学校
中京大学附属中京高等学校(84回生)
中京大学体育学部卒業
IMG TOKYO所属
経歴
・オリンピック
2010年バンクーバーオリンピック銀メダリスト
2014年ソチオリンピック6位入賞
・世界選手権
2008年、2010年、2014年世界選手権優勝
グランプリファイナル優勝4回
四大陸選手権優勝3回
全日本選手権優勝6回。
浅田真央の母親の職業はホステス【入船】
・母の職業はホステス「入船」徹子の部屋
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浅田真央さんのお母さんは浅田匡子(きょうこ)さんといいます。
職業はホステスで、名古屋にある?入船というクラブで働かれていたそうです。
フィギュアスケートは非常にお金がかかるスポーツとして知られています。
クラブの登録費だけでも年間50万円以上、コーチへの月謝、レッスン料、リンク使用量は20万円ほど
また大会の衣装や遠征費、振り付け代などを入れると他のスポーツとは比較にならないほどダントツに高いのです。しかも匡子さんは舞さん真央さん二人に習わせました。
ちなみに、世界選手権などに出れば費用は年間2000万ほど必要になるそうです。
お母さんのホステスとしての働きがなければ、幼いころから、お姉さんの浅田舞さんと妹の真央さん二人に
スケートができる環境を与えることができなかったかもしれません。
真央さんの父親となる敏治さんと知り合うきっかけもホステス時代ということです。
また、お仕事柄お仕事柄お酒を飲むことも多かったと思います。
のちの肝硬変もお酒が原因だったかもしれません。
浅田真央の母親の生い立ちと性格は
メディアには舞さん、真央さんを立派なスケート選手として育てた母親の匡子さんがたびたび取り上げられましたが、匡子さんの生い立ちの情報はあまりありません。
今回の徹子の部屋で真央さんが語るのかもしれませんね。
そこは番組に任せるとして真央さんの母親の匡子さんの生い立ちと二人の娘のスケートにかける情熱をまとめてみました。
浅田真央の母親の生い立ち
浅田真央さんおお母さんの匡子さんは苦労して育ったようです。
家族は父親、母親、姉、そして匡子さん。
匡子さん姉妹は12歳の時に父親を亡くし、母親一人手で育てられたということです。
決して裕福な家庭ではなかったそうですが、
父親の死後は、母親の愛情は二人の娘さん向けられたようです。
しかしその最愛の母も匡子さんが20歳の時に亡くなっています。
奇しくも、家族構成も浅田真央さんの一家と同じです。
しかも母親を20歳の時亡くすのも真央さんと同じという運命でした。
母親の死後、匡子さんはホステスの職業につき、後の真央さんの父親となる敏治さんと知り合います。
真央さんの姉の舞さんを身ごもりできちゃった婚で結婚、そして真央さんが誕生しました。
浅田真央のジャンプは母親の研究の賜物
浅田姉妹のスケートをはじめたきっかけは
真央さんが5歳のとき姉の舞さんとスケートリンクに遊びに行ったことでした。
浅田姉妹。姉妹で門奈裕子コーチが教える名東フィギュアスケートクラブに入会します。
名東フィギュアスケートクラブに入会当初は年長である姉の浅田舞さんが早く活躍をします。
クラブには後々の真央さんのライバルとなる安藤美姫さんも所属していたそうですが、当時のライバルは舞さんと安藤美姫さんだったかもしれません。
しかし、次第に妹の真央さんも成長しジャンプで姉を凌ぐようになりまます。
真央さんは3歳からバレエのレッスンを受けていたそうです。
もともとスケートはバレエで使う足首を鍛えるためにはじめたそうです。
当時、この足首を鍛えることはコンビネーションジャンプの世界の浅田真央につながるとは誰が想像したでしょうか。
真央さんのジャンプについて母親の匡子さんは独学でスケートのトレーニングの本を購入し
また、1998年長野五輪を制したタラ・リピンスキーの演技を映像で何度も何度も繰り返し見て、夜中まで研究したそうです。
この成果は真央さんが小学6年生の時に現れます。
「天才少女」浅田真央の名を夜に知らしめたコンビネーションジャンプ(3回転フリップ-3回転ループ-3回転トウループ)を世に披露したのです。
特例で出場した全日本選手権で不完全ではありましたが、このジャンプで小学生の浅田真央さんの名前は日本中に知れ渡ることとなったのです。
タラソワコーチと直談判!母親の情熱に支えられた浅田真央
名古屋に住む匡子さんは真央さんのスケートの練習のため横浜まで車8時間かけて度々行っていたそうです。ここまで来るとまさに執念という感じですね。
そして真央さんの母親の匡子さんがロシアの有名なタラソワコーチと直談判したことは世の中をあっと驚かせました。
日本人嫌いで知られるタラソワコーチを自らロシアに行き娘の真央さんのコーチとして口説いたのは匡子さんの娘とフィギュアスケートにかける情熱としか言いようがありません。
タラソワコーチと二人三脚で挑んだバンクーバー五輪の『鐘』演技と今までの浅田真央になかった黒と赤の印象的な衣装のは今でも鮮烈に目に焼き付いています。
浅田真央の母親の死因は肝硬変
浅田真央さんの母親・浅田匡子さんが亡くなったのはバンクーバー五輪の翌年2011年のことです。
年齢は48歳 浅田真央さんが20歳の時です。
死因は肝硬変でした。
実は匡子さんは20年ほどまえ、肝硬変を患っていました。
真央さんおお母さんはホステスとして働いていたためお酒も飲むことが多かったのでしょう。肝硬変という病気はその影響も否めません。
母親の匡子さんの48歳というあまりにも若い死、真央さんはカナダでのGPファイナル開幕直前でした。
日本から母親の健康状態が悪化を受けファイナルを欠場し帰国するも死の際に間に合いませんでした。
母の入院していた病院はどこ
浅田真央さんの母親匡子さんが入院していたのは名古屋市の病院とあります。
GPファイナル(カナダ・ケベック)に出場予定だった浅田は、この日、成田空港に緊急帰国。国内線に乗り換え、自宅のある名古屋市に夜到着。しかし母最期の時には間に合わず、悲しみの中、無言での対面となった。
浅田 真央 母の死と母への思い
浅田真央さんの母親の匡子さん娘二人を立派なスケート選手として育てあげた母としてマスコミやメディアに度々取り上げられています。
匡子さんは誰よりも、真央さん・舞さんのファンだったに違いありません。
浅田真央さんは2010年にバンクーバーオリンピックで銀メダルを獲得
その翌年に母親の匡子さんを亡くしています。
今からちょうど10年前のことです。
バンクーバーオリンピックはライバルのキム・ヨナと一騎打
日本国中の誰もが浅田真央に金メダルの期待をかけていました。
当時国民の期待は浅田真央さん一身にかけられていました。
そして浅田真央さんは未だかってない勝負としてコーチをロシア人のタルソアに代えて挑みました。
タルソアの採用は国内で賛否両論ありました、しかし前述した通りこの大勝負には母親の匡子さんが大きく絡んでいたのは間違いありませんでした。
この第会で浅田真央さんはキムヨナとの一進一退のデッドヒートの末に自己ベストを更新し、銀メダルを獲得します。
その夜、悔しさを引きずる娘に母親の匡子さんは言葉をかけました。
「銀メダルって凄いんだよ」と
その言葉があったことで、浅田は結果を受け入れることができたとも言われています。
そして母のこの言葉に応えるようにキム・ヨナを破るのが同年に開催された世界選手権です。
バンクーバーオリンピック金メダリストのキム・ヨナ破って2年ぶりに金メダルを獲得するのです。
母親の匡子さんが亡くなる1年前のことです。
母親の匡子さんにとってはこの金メダルは、娘の真央さんがなによりも自分のために獲ってくれたものだということがわかったに違いありません。
アデリナ・ソトニコワのTwitterに浅田真央さんと母親の匡子さんの絆が書かれていました。
「真央は我慢強くて、彼女が背負ってきた困難を乗り越えることができる人。だって、彼女が母親を失ったとき、彼女は母親のために自分の演技を支えていた。私は真央と一緒の場にいることができて幸せでした。なぜなら、真央が卓越した人だから」-アデリナ・ソトニコワ(真央23歳)
— 浅田真央BOT2 (@maoasadabot2) April 19, 2019